2020年 2月 4日(火)
この世界に存在する
全てのものは
自らに都合の良い
“事実”だけを
“真実”と誤認して生きる
そうするより外に
生きる術を
持たないからだだが
自らを肯定するに
- BLEACH 藍染 惣右介 -
不都合な“事実”こそが
悉く真実なのだ
※悉く…ことごとく
真面目な話が続くなぁ。
もうちょっと気ままに書きたいんだけど…
(ある意味、気ままか。)
でも、やっぱりランニングに当てはまて考えてしまうんだよねぇ。
「自らに都合のいい “事実” だけを “真実” と誤認して生きる」
走り込み、距離走、最大酸素摂取量(VO2max)、ピッチとストライド、レースペース、カーボローディング、体感したこともない疲労感、超回復、集団走と単独走など、数え上げたらキリがないわけだけど、それらを「自分にとって足りないもの」と認識して練習に取り組んでいる可能性がある。
そこへは「ペース設定に間違いがあった」とか「理想とされる食事についても違いがある」とか「良質な睡眠時間」という事実は含まれず、走れるようになるために必要な要素は「走り込み、距離走、最大酸素摂取量(VO2max)、ピッチとストライド、レースペース、カーボローディング、体感したこともない疲労感、超回復、集団走と単独走など」ということにだけ目を向け、この話をしたとしても「自らにとって都合のいい言葉」を並べて本当に改善すべきはどこなのかを受け入れず、 同じ過ちを繰り返すことが多い。
1kmを全力で走ってみて後半へなるにつれて失速をしたとしても、この事実を「走り込み不足だ」と認識するのか。
最大酸素摂取量(VO2max)、ピッチとストライド、レースペース、カーボローディング、体感したこともない疲労感、超回復、集団走と単独走と認識するのか。
たぶん「そんな練習をしていないから」という言葉で締めくくるんだろうね。
それが100mでも3kmでも10kmでも同じ。
「フルマラソンには関係ない」という言葉も考えられるし、「僕(私)は苦手だから」という言葉も考えられる。
「この距離を走る!」と決めて「このペースで走り切る!」と考えたとき、インターバル走や距離走で最後まで失速しないで走り切れる人なんて少ないよ。
(走り切れたとしても後で足が痛くなるとか…ね)
「自分には無理」という考えがあったとしてもそれを可能にするために練習をしているんだし、それなのに「それは無理」と言うのであれば普段の練習は何のためにやっているんだろうね。
…フルマラソンのため、か。
堂々巡りになるね。
たかが駆けっこ。
されど駆けっこ。
駆けっこを侮ることなかれ。
ちゃんと向き合うべきじゃないのかな。